私がはっきり友人だと言えるのは、2.5人です。
一人は、私が通信高校の時に生徒会に入ったときにいた4歳年上の女性です。もうすぐ4歳になる可愛い男の子が居ます。
私は子供が嫌いなのですが、唯一可愛いと本気で思える子供です。
それはきっと、その子の母親である友人が、まるで姉のように私に優しく接してくれ、ずっと変わらずに付き合ってくれるような人だから、子供も可愛いのだと思います。
色々な価値観や考えも結構合いますし、私の面倒くさい過去や今現在の面倒くさい家庭事情なども、決して嫌な顔をせずに聞いてくれます。落ち込んでいるときはご飯を食べに行こうとさりげなく誘ってくれます。

そしてもう一人は、先ほどの彼女の妹です。歳は私より一つ上です。とある日からお出かけについて来てくれるようになって仲良くなりました。歳が近いので、キャッキャしてます。個人的に、心根が天使のような…、損得勘定などの汚さが全くない、心の綺麗な子です。チェブラーシカの懸賞に応募してくれ、当たったらあげようと思った、といって、その景品をくれました。
チェブラーシカの景品をもらった事より何より、その当たったらあげようと思った、という気持ちがとにかく嬉しかったです。

で、残りの0.5人なのですが、はっきり、といいながら半分になってるのは、結局友人なのかなんなのかよくわかってないからなのですね。
彼女とは中学二年生の時に出会い、お互いの家で遊んだり、うちでご飯を食べたり、お出かけもしましたし、オーストラリアへホームステイに行ったときも彼女は行ってました。
ただまあ、少し彼女の愛情表現というものはよそからみると強かったので、初めて見る人は結構驚いていました。
後ろから抱き着く、手を握って遊ぶ、肩にもたれて眠る、など。
私とは中学の時に知り合った子で、彼女とは小学校が同じだった子がいて、その子が、いつもああなの?と母に尋ねていたくらいなので、彼女の元々の様子からもそうなんでしょう。
で、高校は私は地元、彼女は市外へ行ったのですが、メールやらホームページやら、交換ブログなどはしていました。
その途中で、私はその後の彼女との関係を色々と考える事情を知った、というか自分が問い詰めて知ることになったのですが、割愛します。
誰も興味のないことでしょうし、その事について話すのは私にしても、彼女にしてもデリケート過ぎる出来事過ぎて、これはきっと、ずっと誰にも言わずに秘めておくべきことなんだと思います。
でも、それがあるせいで、私は彼女のことを友人だと思っていていいのか、どうなのか、最近は本当にわからなくなり、自分の意気地のなさには辟易しています。
はっきりさせたいところと、はっきりさせて自分が要らなくなることが怖い。
気持ちは二つ、です。
ですが、最近、珍しく私が誕生日にとプレゼントを買って、お出かけに再三誘ったのですが、メールは全て無視されてしまいましたので、この縁もこの限りだなと思っています。
こんな終着点はどうなのかという気持ちですが、それが彼女にとって楽であり幸せならば、私は逆らうべきではありません。
また、無闇に人の気持ちを掻き乱す必要は何処にもないからです。
ただまあ、プレゼントと、気持ちが無駄になってしまったな…、というところはあるのですが、捨てます。忘れます。
珍しくそんなことをするのがそもそもの間違いでした。


私には、小学校五年生の時に、親友がいました。親友とは言い合ってはいませんでしたが、親友だからこそ、そういう名前はつけていなかったんだと思います。
彼女は転校してきた子なのか、どうなのか、定かではないのですが、それまでに私が付き合ってきた友達とは全く別のところにいる子で、私はその子と仲良くなってから、他の子とはほとんど付き合いがなく(遊んでいた記憶がない程)毎日彼女と一緒に居ましたし、遊びましたし、住居の地区が大きいので二つに分かれていましたが、そのうちの片方と片方だったので、毎日一緒に帰っていました。
うちに一緒に帰ってご飯を食べて帰ることもありました。
彼女もうちも片親で、彼女の母親はずっと彼氏といるような人だったので、彼女が一週間いくかいかないかという間、うちに泊まって学校へ行っていたこともあります。
一週間になる前に、この子は興奮するとおもらしするから、と彼女の母親が迎えにきたこともあります。
彼女は帰りたくなさそうでしたし、私も帰って欲しくなかったですし、母も帰って欲しくなかったようでした。
その上、おもらしをする、などという恥ずかしいことまで言わなくても良かったのではと思いました。

彼女は、続けてとはいかなくとも、度々、うちに泊まる事がありました。
彼女には姉と兄が居たので、一緒にご飯を食べたり、彼女の家へ母がご飯を作りに行ったりすることもありました。
でも大体は、姉や彼女がご飯を作るのが当たり前だったようで、私は手伝いくらいで料理など全くしなかったので、出来るなんて羨ましいなと思っていましたが、そうしていかないと彼女たちはご飯を食べる術がないので、当たり前のことだったんですよね。

あるとき、私がもともと友達だった女の子が、彼女に興味があったのか、好きだったのか、彼女と仲の良い私に嫉妬することがあり、意地悪をされることが増えました。
その子とは一年生の時に出会ったのですが、その子は私を何かにつけて虐める子でした。
イスで私の上履きを踏んで、脱いでるから大丈夫、と言って、散々断っているのに最後は脅迫するように言われたので、渋々踏んだら、足を踏んでもいないのに泣いて、周りに◯◯ちゃんがイスで足を踏んだと言うような子でした。
他にも普通に話していたら、急に泣き真似をして困らせて、通りがかった人にはまるで私が悪いように振る舞ったり。(これは四年生くらいの話です)
靴を隠されたり。(犯人は定かではないのですが、今でも疑っています。)
高校生になるくらいまで、ずっと隠れてそのような感じでしたので、周りの友達はそれを知らずに仲良くしていたので私も嘘だと思われるのが嫌だったのと、チクるような真似が嫌だったので、黙っていました。性格がとにかく悪く、泣き真似をしたり、舌打ちをしたり、急に廊下のロッカーを蹴って暴れたりするような子でした…、今でも本当に怖い。
それで、そのような難しい子が、私の親友(ユリエ)を好きになったはいいものの、ユリエのそばには常に私がいたので、私に怒りの矛先が向かい、シカトや暴言などは結構受けていました。
これは、女の子って本当になんなんだろう…、と毎日悩みました。ユリエとわざと帰らなかったり、ユリエをその子のところに行かせたり、色々と工夫して避けてはいました。

そして、後半、くらいでしょうか。
京都から転校生がやってきて、その前の転校生の子と、京都からの転校生とユリエと、私の四人で遊ぶことが何回かありました。
転校生二人は団地の子でしたので、団地集合ということがよくありました。
京都のこと、私だけで遊ぶこともありました。
それでも、ユリエとだけは特に親密でした。
それが、ある時、京都からの転校生がニコニコと笑って、「これ、知ってる?」と言って私に近寄り、その差し出された手紙のようなものを読んでみると、私のことが書かれていました。
「◯◯、ズボンのボタンが飛んだんで!笑 バチッ、コロコロって!ホントウケたし!笑」
読んで、その内容に戸惑って固まった私に、京都からの転校生は、まだ笑っていました。
ズボンのボタンが飛んだ。
それを知っているのは1人しか居ませんでした。ボタンが飛んだのも、その子が一緒に居たとき、ただその一回ですから。
ユリエとは、一緒にお風呂に入ることも当たり前でした。
ズボンを脱ぐとき、ズボンのボタンが弾けて飛んでしまいました。そのとき私が喘息の薬の副作用と、太れなくて普通より多めに食べていたのが、ようやく身体が成長して、栄養を真っ向から吸収するようになったことで太り始めたこともあったので、ズボンがキツかったんですね。
でもその時は、二人して驚いて、うわ、びっくりしたね!でも誰にも言わないでね、恥ずかしいから!言わないよ〜!
と言い合ったはずだったんです。
健康診断で、肥満の疑いありと言われたこともあり、その事もあり、身体のことには敏感になっていたのですが、ユリエに知られるくらいは別にどうでも良かったのです。
それくらい仲が良かったのですから。
でも、それを他の人に、京都から転校して来て間もない子と、ネタにして笑っていいなどとは全然思ってませんでしたし、そんなことをされるとは思いませんでした。
私は、固まったあと、どうしたらいいのかわからず、ただ笑って誤魔化したような気がします。
これってホントなん?といって、その転校生が笑って聞いてきたような気がします。
それから私がどうしたのか、そこだけが抜け落ちてしまいました。
他の手紙を見せて貰い、借りて、先生に物的証拠を提示して、相談したというのが1番近いような気がします。
動揺も一周して、ひどく冷静だったのは覚えています。
転校生はわざわざ悪口の手紙を見せてきたような子ですから、貸してと言っても、簡単に貸してくれたんだと思います。
次の日、私は学校を休みました。
素知らぬ顔をして行けるはずがなかったのです。
次の日も、次の日も、その次の日も、そしてまた次の日も、私は学校を休みました。
何日目かに先生が家に訪ねてきました。
玄関の開き戸は、全部開けませんでした。誰とも会いたくないのに、話したくないのに、帰ってくれないので、仕方なく開けていました。

ユリエは、謝りたいって言ってる。

そう言ったテンプレのような台詞を、先生は言いました。
そんなこと、言われるだろうなと思っていたので何にも思いませんでしたし、とにかくあの時は感情がなくなっていました。
1度は泣いたのか、泣いてはいないのか。抜け落ちてしまいました。
ユリエに伝えたいこと、何かない?と残酷な事を聞かれました。
謝るくらいならして欲しくなかった。
仲が良いと思っていたのに、裏では馬鹿にされていた。酷い。
色んな気持ちが渦巻きました。
私から出た言葉はたった一言

「裏切られた気持ち」

それだけでした。
先生は何も言わず、帰りました。
小学五年生で、裏切れる経験なんてそうそうないのですから、裏切られるとはどういうことなのか、裏切れたときどういう気持ちなのか、そんなことはわかるはずがない。
裏切られたというのも、なんだか大袈裟な気がする。
だから、1番近かったのが、この言葉だったのだと思います。
母に手紙の件を話したとき、一週間だけ休むね、と母に笑って言ったことを確かに覚えています。
一日では短い。三日でも。そう考えて、一週間という短過ぎず、長過ぎず、先生や周りの生徒が動揺し、本人たちが罪悪感に苛まれるのにちょうどいい時間をもうけたのです。少しは痛い目見て欲しいもん、と言ったとき、母は、反対しませんでした。母も、私と同じように裏切られたのですから。
先生にも、一週間休んだら行きますよ、と言ったのだと思います。
私には私の考えがある、と。
小学五年生にして、打算的な面倒くさい人間が出来上がってしまいました。
嘘のようで、本当の話です。

それから学校へ戻りましたが、ユリエから謝られて、謝るくらいならしなきゃ良かったのに。と返した記憶があります。
それから、ユリエと付き合うことは当然なくなりました。
あれほど近かった存在も、簡単なことでなくなってしまいました。
いつの間にかユリエは居なくなりましたが、それにも気づかなかったほど、ユリエという存在は私の中から消えていました。
母伝てに、ユリエは私の事が羨ましかった、本当に好きだった、あんな事をしなければ良かった、と後悔しきりだったと聞きました。
それは私だってそうなのです。
私は可愛いユリエが羨ましかった。大好きだった。あんな事をしなかったら、今でも仲の良い友人でいられただろうに。
それとも、私が広い心でユリエを許して上げられていたら、友人でいられたのでしょうか。
今となっては、何もわかりません。
ただ、クラスのリーダーや委員会でもバリバリ動くアクティブな子どもだったのが、この事でトラウマ、というものを抱えてしまったことは確かですし、これから、遅刻や早退、欠席が目立つ不登校児になってしまったのは間違いないことです。
新しい友人との接し方も一線置くことが多かったです。
今は、友人は広く浅くより、狭く深く、の方が向いています。

ここまで読んでくれてありがとうございました。
かなりの長文でした。

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